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翻訳、英文校正、英作文ブログ

標準英語の拠点、カリフォルニアに住む米国人の方のご協力で、当ブログでは、翻訳、英文校正、英作文のコツをご紹介します。生きた英語の文章を書けるようになりたい、ビジネス英語を向上させたいと思う方に役立てていただければ幸いです。
ドイツの国歌
ドイツの国歌    日本の国歌である「君が代」は明治時代の初めに、西欧諸国がそれぞれの国歌をもっていることにならって、日本古来の和歌を参考にして作られた歌詞に日本の雅楽風の旋律に西洋音楽の形式をかぶせてできたものと言われています。最初に制定されて以来、明治・大正・昭和・平成と一世紀以上の間、正式の国歌として様々な機会に演奏されています。   世界の諸国にはそれぞれ国歌がありますが、私たち日本人の多くが少なくともそのメロディーを(歌詞はそれぞれの国の言葉ですので私たちがそれをいちいち知って理解するというわけにはいきません)知っている他国の国歌はあまり多くありません。そのなかで、歌詞のメロディーがほとんどの日本人におなじみの国歌の一つ(おそらく代表的なひとつ)がドイツの国歌であると言えるでしょう。その主な理由はもちろん、このメロディーが誰でも知っている著名な作曲家のハイドンが18世紀の末に作曲した弦楽四重奏曲『皇帝』の第二楽章の出だしの主題を下にしているからです(ただし、ハイドンはドイツ人ではなくオーストリア人だったと言われています。また、この曲が本当にハイドンによって作曲されたものであったのかどうかについても、音楽学者による近年の研究において疑問が提出されています)。この第二楽章の主題は、ハイドンが「神聖ローマ皇帝フランツ2世」に捧げた「神よ、皇帝フランツを守りたまえ」を元にした、皇帝をたたえる歌でした。この局自体はもともとはドイツの国歌とは全く関係のないものでした。国歌が生まれたのはファラースレーベンという詩人が、ドイツ統一の行われる前の19世紀の中葉に偶然のきっかけでフランスとイギリスの軍楽隊の演奏するそれぞれの国歌(「ラ・マルセイエーズ」、「女王陛下万歳」)を聞いて、当時のドイツが国民的統一も果たしておらず国歌ももたなかったことに強い衝撃を受け、国歌の歌詞となるべき詩を作ったことによってでした。この詩と上記のハイドンの曲が組み合わされることによってドイツの国歌が生まれたと言われています。   このような作詞の経緯から、ドイツの国歌の内容はドイツの国民的統一を希求しドイツの国威を顕揚するものとなっていました。この傾向は特に歌詞の第1番に強く表れています。ドイツが「この世のすべてのものの上に」君臨することが謳われ、また、現在はドイツの領土に属さない諸地域をドイツのものとする内容も含まれています。こうした1番の歌詞の内容はナチ時代のドイツ国家にはむしろ歓迎され、この時代には歌詞の1番だけが正式の国歌とされました。しかし、第二次世界大戦後のドイツの敗戦と東西分割の状況の下でこの覇権主義的な内容を持つ国歌は批判の対象となり、一時期はまったく新たな国歌を制定しようとする動きもあったようですが、旧来の国歌にとって代わるものができず、1952年に西ドイツがオリンピックに復帰するにあたり、3番の歌詞が東西に分断されていたドイツの再統一を願う内容と解釈されることにより、ハイドンの曲に3番の歌詞をのせたものが再び正式の国歌とされることになりました。この3番の歌詞には、「統一と正義と自由」をドイツ国民が手を携えて実現しよう、と謳われています。  この3番の歌詞は1990年のドイツ統一後にも引き継がれ現在でも正式のドイツ国歌とされています。また、現在では、ナチ時代の正式の国歌であった1番の歌詞を人前で高唱したり録音を流したりすることは、それだけでネオナチの嫌疑の対象となるようです。このように国歌一つにも、19世紀以来のドイツのたどった歴史的な曲折が反映されているのは興味深いことです。
| | ドイツ語 | 22:50 | - | trackbacks(0) |
接続法
接続法  初級のドイツ語文法や会話のコースでほとんど決まったように最後に出てくるのが、「接続法」とよばれる動詞の独特の変化形をともなう文章構成法です。ドイツ語の辞書の巻末には動詞の変化表が付されているのが普通ですが、その中に必ず直接法と並んで接続法という欄があり、その欄に示されている当該動詞の変化形をともなう構文のことを言います。  「接続法」という表現自体が日本語にはもちろん私たちだれもが中学から学ぶ英語にもありませんので、始めて接したときには大変難解なわかりにくいもののような印象を与えるかもしれません。  動詞は文章を組み立てる際には不可欠な要素ですので、文法を学ぶにあたって早い段階から基本的な事項を学習しますが、接続法を学ぶのに先立って出てくる動詞の基本的な使い方は直接法とよばれるものです。これは実際の事実をありのままに叙述するときに用いられる動詞の形(「法」)で、もっとも一般的な動詞の用法と言ってよいでしょう。これに対して接続法は実際に生じている(生じた、生じるであろう)ことではなく、述べられていることの現実性に問題がある場合に用いられる動詞の形です。実は、上に触れた接続法の変化形を覚えるよりも、この「いかなる場合に接続法が用いられるか」・「動詞が接続法の形をとっている時に文章のニュアンスが直接法になっている場合と比べてどのように違うか」を理解する方が、接続法を習得するにあたってより大きな困難となります。具体的には、動詞を接続法とする主な場合は三つあります。  第一は、「こうあってほしい」という話者の主観的な希望や願望あるいは仮定を述べる「要求話法」と呼ばれる文章です。話者が頭の中で望んだり仮定したりしているにすぎず、実際に起きていることではない(あるいは起きるかどうか不確定である)、ということを表現するために用いられます。第二は、第三者の言ったことや考えていることをそのまま伝えるときに、その内容を表現する動詞を接続法とする「間接話法」と呼ばれる構文です。この場合の接続法も、話者が直接見聞きした(している)事実をそのまま伝えたり、話者自身の考えを表現しているのではなく、話者自身は述べられている内容の真偽に判断を下したりその内容に同意するかどうかという点をペンディングにしておく(あるいは、往々にして、真実性に疑問を抱いていたり、不同意であったりする)ときに、この点を表現する形として用いられます。第三は、明らかに過去ないし現在に事実と異なることを仮定し、その仮定の下で生じうることないし生じていたであろうことを述べるときに使用される、「非現実話法」と呼ばれる接続法の用法です。いずれの用法においても過去ないし現在に事実をありのままに述べるのではないという点は共通しています。なお、第二と第三の用法に関しては現在について述べるときの「第一式」と過去の事柄にかかわる「第二式」とが区別され、それぞれ当該動詞の変化形が異なります。どういう場合に接続法が用いられるかを文法的に説明すれば以上のようになりますが、実際にドイツ語が使用される場面で反射的に接続法を用いたり、逆に接続法が出てきたりしたときにそのニュアンスをストレートに理解したりできるようになるには、やはり実際の用例に多くあたって慣れることが必要です。文法は実際に使用される言葉の規則を理論的にまとめたものですが、これを理解したり記憶したりするだけでは、言語を身につけることができないのは接続法に限ったことではありません。
| | ドイツ語 | 04:51 | - | trackbacks(0) |
ポルトガルの歴史
ポルトガルの歴史  ポルトガルは今でこそ欧州の小国として、国際的にはさほどその重要度をアピールできない立場に甘んじているようだが、その歴史は長く、また世界に冠たる大海洋王国として君臨した時代もあり、人々はけっしてその誇りを失ってはいない。  現在でもポルトガルを指す表現としてルシタニアという言葉があるが、これは紀元前に定住していたルシタニ族に由来するように、温暖で肥沃なイベリア半島には早くから定住者がいた。長い歴史を経てローマ帝国の属州になったり、アラブ人などの勢力がこの地に侵入してきたが、現在のポルトガルがある領地はほとんどいつの時代にも同程度の面積が維持されていた。こうして10世紀になるとアラブ人に対する国土回復運動がイベリア半島で起こり、1095年にカスティーリャ・レオン王国のアルフォンソ六世から、エンリケ・デ・ボルゴーニャがポルトゥカーレ伯(Condato Portucalense)の称号を貰うに至る。この称号こそが後にポルトガルと呼ばれる国家の名称へと繋がることになる。 その子のエンリケスは宗主国であるカスティーリャ・レオン王国と争い、ついに1129年ポルトゥカーレ公として自立すると、1139年には独立を宣言し、ポルトガル王アフォンソ(Afonso)一世と称した。この国家は1143年にカスティーリャより承認され、ここにポルトガル王国が誕生した。紆余曲折があったものの最終的には1920年までこの王制は続くこととなる。  当初のポルトガルは現在でいうところの北部が中心となっており、すぐにリスボンに侵攻するなどして12世紀中に国土を増やし、13世紀半ばにはアラブ人を放逐してほぼ現在のポルトガル領と同じ面積を治めるに至った。 その後15世紀になるとモロッコまで侵攻し、以後エンリケ航海王子(Infante Henrique)が登場すると、アフリカ航路の開拓に注力し、喜望峰発見、インド航路の開通、ブラジル到達などの偉業が続き、いわゆる大航海時代を迎える。同じように勢いのあったスペインとの間で、世界を二分するほどの勢力を誇ったものの、史上ポルトガルがもっとも栄えたこの時代はそれほど長くは続かなかった。  1580年に王家が断絶するとスペイン国王がポルトガル国王を兼ね、事実上スペインの統治下へと置かれることになる。60年後にようやく独立を回復してからは、植民地を増やすなどいささかの繁栄を取り戻したものの、18世紀になるとナポレオン率いるフランスの侵攻を受ける。一時はフランスの占領下に置かれ、その後はイギリスの介入などで独立を回復したものの、最大の植民地であるブラジルが独立してしまう。その後は内戦が続くなど国内が騒乱した時代が続き、民主主義運動の高まりによる革命がおき、1910年についにポルトガル王国は消滅し、共和国の誕生に至った。  その後はサラザールによる独裁政権が続いたが、1974年のクーデターで完全な民主体制が整うと、1986年の欧州共同体に加盟して以降、名実共に欧州西側国の一つとして現在に至っている。
| | ポルトガル語 | 20:08 | - | trackbacks(0) |
ポルトガル語翻訳の些細な注意点
ポルトガル語翻訳の些細な注意点 ポルトガル語翻訳に携わるとき、ポルトガル語から日本語への翻訳すなわち葡和翻訳のときはまだしも、日本語からポルトガル語への翻訳すなわち和葡翻訳のときに、すこしだけ注意を払わねばならないことがあるかもしれない。それはポルトガル本国のポルトガル語と、ブラジルで使われているポルトガル語とに若干の差異が見られることだ。  ポルトガル語翻訳を行う場合、日本とのポルトガル語圏との関連を考えると、これはもう圧倒的にブラジルが中心となってくるものと思われる。ポルトガルに進出している日系企業も多いが、欧州統合となった現状では、対ポルトガル一国のみの商売の占める比率も著しく減少しており、欧州では元々マイナー言語であるポルトガル語の需要がそれほど大きくないのもうなづける。その一方で豊富な資源と労働力を持ち、かつ南米の周辺国への影響度も高いブラジルへは日本からの投資も多く、ポルトガル翻訳の必要性も自ずと高まってくると考えられる。   日本人の筆者はブラジルで5年ほど生活したため、覚えたポルトガル語は必然的にブラジルのポルトガル語ということになる。この状態でポルトガルに行った場合、どんな問題が生じるのか、それがつまるところポルトガル本国のポルトガル語と、建国5百年を迎えたブラジルのポルトガル語の差異ということになろう。   筆者がリスボンのホテルにチェックインし、明日の朝食は何時から食べられるかと聞いたとき、レセプションで一瞬とまどった表情を見せてから時間を教えてくれた。その理由はすぐに教えてもらえたのだが、ブラジルでは朝食を caf? da manh? (カフェ・ダ・マニャン)と呼ぶが、ポルトガル本国では pequeno almo?o(ペケノ・アウモソ)と称する。日本語に直訳すると、前者は朝のコーヒーという意味だし、後者は小さな昼食という意味に訳せる。これを単に呼称が違うということで片付けることもできよう。 Antonio Machado  しかしこうした何気ない日常の言葉から、それぞれの言語が育まれた歴史や文化が背景にあることに気づかされる。ブラジルは我々がたやすく想像できるようにコーヒーの大産地であり、季節に関わらずコーヒーは年間を通してよく飲まれている。朝は当然ながらコーヒーでスタートすることになり、それが一日の最初の食事の代名詞として使われるようになったのもうなづける。他の欧州系言語では朝食にコーヒーをいくら飲む習慣があろうが、朝食そのものをコーヒーをつけて呼ぶことまではしない。一方でポルトガル本国では欧州の一国として他諸国と似た生活様式を営んでいるのであろうし、一日三回の食事の一度目という見地から、昼食より控えめの食事という程度の認識でこうした呼称になったのではなかろうか。   こうした認識は両国の言葉の違いを知った上で、初めて明らかにできることである。ポルトガル語翻訳の際には、それがブラジル相手なのかポルトガル人が対象なのか、そうしたことを加味した和葡翻訳を心がける必要があると感じるきっかけとなった。
| | ポルトガル語 | 08:26 | - | trackbacks(0) |
ドイツ人
ドイツ人  1989年のベルリンの壁の崩壊により、それまで東西に二分されていたドイツは一つの統一国家となった。つまり現在のドイツは、新たな国家体制を発足させて20年にも満たない歴史しか有していないのである。現在普通に「ドイツ人」というと、この現在の国の国境内に居住しドイツ国籍を有する人々をさす。しかし、現在のドイツおよびその版図の周辺の地域は歴史上国境線が頻繁に変更されてきたし、また、そもそも統一されたドイツというものの存在自体が古来確固としていたわけでもなく、それまでの領邦国家体制をひとつのドイツ(帝国)にまとめ上げたビスマルクの事業以来、過去1世紀半のあいだだけでも幾多の変遷を経てきている。  上のように単純に、ある一定の国境線に囲まれた領土内に居住しその国家から国籍を認定されている人々の集まりを「ドイツ人」と見なすとすると、「ドイツ人」の範囲は極めて不安定なものとなり、「ドイツ人」とは何かということが改めて問われることになる。実は「ドイツ人」をどう定義するかというのは至難の問題なのである。  ドイツは上記のドイツ帝国の成立によって初めて近代国民国家としての体裁を整え「国民的統一」を達成したが、しかし、このときも含めて現在に至るまで(そしておそらく将来にわたっても)「単一民族」からなる統一国家を持ったことは決してなかった。そもそも、19世紀の最初のドイツ統一の中心となったプロイセン王国の中心にあったベルリンの位置する東北部のブランデンブルグは、すぐ近くのポーランドのスラブ系の住民との雑居地であったのであり、プロイセン王国内で活躍した「ドイツ人」の中には多くのポーランド系プロイセン人がいたと言われる。また、ヨーロッパにあってはもともと人の移動が比較的容易で自由であった。これは大陸ヨーロッパ圏内が陸続きであり、自然環境も言語も生活習慣も地理的な広がりの中で徐々にしか変化していかない、という状況に負うところが大きいと思われる。つまり、国境線が不安定なうえにそれをまたいだ人々の移動が長い間にわたって続いているのであり、現在は「ドイツ人」と言われる人々も少し時代をさかのぼればもともと「ドイツ人」の家系ではなかったり、逆に一時期までは「ドイツ人」であったはずの人々が現在では「ドイツ人」ではなくなっている、というケースがいくらでも存在しうるのである。  現代の日本人の描くドイツ人のイメージは、明治維新以後日本が急速な近代化の過程において手本とした統一国家ドイツの国民である。ドイツ国籍を有するとともにドイツ語を話し長くその地に居住してきたゲルマン系の血筋に属するというのが、「ドイツ人」であることの大雑把な基準とされてきたといってよいであろう。しかし、上に論じた国籍の問題は別として、ドイツ語を話すということでは、域外から居住してきた「他国人」であっても二代目以降であればもともとドイツ国内にいた人々との区別はなくなる。例えばドイツで生まれ育った移民労働者の子供は、母国語としてドイツ語を身につけるからである。とすると残るのは「ゲルマン系の血筋」という「人種的」な差異だけということになる。この点を特に強調し「ドイツ民族の優秀性」を主張したのは、ヒトラーの時代のホロコーストやナチズムの背景となったえせ科学(「優生学」)であった。ユダヤ人の絶滅と周辺諸国への侵略を正当化する「根拠」として、あたかも純粋な民族であるかのようにでっちあげられたアーリア人種の優越が説かれたのである。大戦中の日本はドイツの同盟国としてこのようなドイツ人観からも影響を受けたと思われる。しかし、現在の「ドイツ人」自体、長い歴史的な経過の中で当然のことながら多くの民族の血が混ざっているのであり、その「純粋性」を強調するのは、意識的な排他的思想によるところが大きいと思われる。
| | ドイツ語 | 08:21 | - | trackbacks(0) |
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